2021年5月 翡翠
それはあまりにも突然のことだった。突然すぎて意図がつかめず、この出来事についての理由を尋ねようと長義が口を開こうとしたが、それよりも早く南泉は長義の前から逃げた。見事としかいいようのない、逃げ足。
南泉に逃げられ、その場に残された長義は、手元の青い石をみつめ、「これはどういうことだ?」と吐き出すことしか、できなかった。
◆ ◆ ◆
南泉に「やる」と言って長義が手に握らされたのは、綺麗な青い石。
ただの石がこうも鮮やかであるわけもなく、なにかしらの名のあるものだろうと調べてみれば、翡翠ということが判明した。
――が、なぜ南泉が長義にこの青い翡翠を渡してきたのかは、わからないままだ。
理由を問いただそうと南泉のことを掴まえようとしたが、あと一歩のところでいつも逃げられてしまい、南泉と会うことすらままならないまま、無駄に日だけが過ぎていた。
募るのは、いらだち。
はっきりとしない曖昧さを強制的に抱かされ、理由を問いただそうにも原因は逃げ回っている。
本丸内で逃げ回られている分にはまだどうにかなる、という気持ちでいられるが、ここにきて南泉は長期遠征に出向いた。どう足掻こうと、長義が簡単に掴まえることができないところへと、逃げた。
これははっきりと言っていいだろう。逃げ、だと。
大胆なことをする割に、変なところで小心。
名門一文字の名を持つ刀であるくせに、その名に恥じる行為をしているのではないか――そう長義に思わせる行動ではあるが、同時に別の面をみせている。
小心の面をみせるのは、極々限られた刀にのみ、ということを。
一文字という名は南泉にとって絶大な矜持だ。同時に重りでもある。南泉自身もそのことに気付いているだろうが、本能的に目を背けていて、気付かないふりをしている。
そんな南泉に長義は気付いていた。それは鏡のように映し出された自身の心と同じだからこそ、理解できているところでもある。だがそれだけが理由ではないことも、長義は理解していた。
(果たしてそのことに君は気付いているのかな?)
広い本丸の中にある縁側のひとつに座り込んでいた長義は、石を目の前に掲げながら、そんなことを思い浮かべる。
(まあいい……)
南泉が遠征から戻ってくるまでまだ日がある。それまでに地固めをしておけば、ある程度は有利にすすめることができるだろう。
そんな算段を組み立てていると背後から、振り返らずともわかるほどに楽しそうな調子の刀から声を掛けられる。
「おお。南泉の坊主からもらったか!」
「…………」
南泉が行動に至った八割の答えが、ここにある。残り二割は断言できないので不明のままとしても、元凶はこれか、と長義に別の答えが与えられたのは確実。
振り返りながら発する言葉は穏やかなトーンを心掛けることができても、目はそうもいかず、睨み付けるよう鋭くなる。
「一文字則宗、君が彼を焚きつけたのか」
「ん? なんのことだ?」
「しらばっくれないでくれるかな。それと気配を消して背後に現れるのはやめてくれないかな?」
「おやおや、気配を消してるくらいがなんだというんだ。簡単に背後を取られないようにすればいいだけだろう。なあ、長義の坊主」
扇子を広げ口元を隠しているが、その口元は笑っているのだろうことが容易に想像がつく。そんな口調と態度。
長義は思わず舌打ちをしたくなるが、それをむりやり飲み込み、押さえ込む。
「確かにそれは君の言うとおりだな。今後は簡単に背後を取られないよう気をつけよう。で、猫殺しくんのことを焚きつけたな?」
先程流されたことを長義が再度問いかければ、則宗は仕方なしとでも言いたそうな態度を装いながらも口火を切る。
「焚きつけたとは失礼だな。背中を押してやったまでのことじゃないか」
はははっと高らかに笑いながら「いつまでものんびりしてたらつまらんだろう?」と、いけしゃあしゃあと言ってのける。
(つまらないじゃなくて、ひっかき回したいだけじゃないのかっ! こっのクソジジイ!)
好き勝手自由に振る舞っても、隠居したとはいえ一文字の祖という立場的にだいたいのことは許される――正しくは日光一文字が常にフォローに回っている――ので、長義が常に呆れるほど好きに過ごしている刀は、面白がる過ごし方も満喫しようとしていることを知っている。
理解をしていても、引っかかることはある。
「一文字則宗……なぜ、石なんだ?」
青い石をちらつかせながら、答えが得られないままでいることの疑問を問う。
「なぁに人の子の真似事よ」
「真似事……?」
「人の子は番になる相手に石のついた指輪を渡すんだろう?」
「……なるほど、ね」
石の意味はこれで明白になったが、この刀のことだ。確実に中途半端なことしか南泉に教えていないだろう。南泉はこういった人の子に関わることには疎い。もっと言うとさして興味を持っていない。だからこうも長義を混乱させるようなことをするのだ。すべてが中途半端がゆえに……――。
「なぜ青翡翠なのか、君は知っているのか?」
「もちろんだ。教えてもいいが、訊いたらお前さんがっかりするぞ?」
ここまできたら楽しんでることを隠そうとする気もないのだろう。ニヤニヤとしながら「それでも訊きたいか?」と告げてくるのだから。
「ここまで訊いたらがっかりもなにもないだろう。なんなんだ?」
「現代遠征で番の話をした店で売ってたからだ」
「はっ!?」
「がっかりしたろ?」
「別にがっかりなどしないが。まぁでも猫殺しくんらしいといえば猫殺しくんらしいと言えるかな……」
すべてをすっ飛ばして必要なことを一切告げないことも、行動を起こしたもののどうしていいかわからず逃げ回るのも、浅慮なのは今更だ。何百年経とうと本質的なところが変わるはずもないのは、長義も重々承知していること。
ただこうも容易く挑発に乗ってしまうのはどうなのか――と思わずにはいられないが、挑発してきた相手を考えれば致し方ないところもあるだろう。同じ一文字の、己よりも格上の刀から言われてるのだから。
(理由はどうあれ、とりあえずここまで向こうがお膳立てしてくれたんだから、ね……)
南泉が戻ってくるまでに絶対的な地固めをし、なにがあろうともう易々と逃げさせないし、戻ってきた瞬間に掴まえることを心に誓い、恋刀をすっ飛ばして番に行き着いてる彼をこちらから縛りにいく。その算段をじっくりと練るだけのこと。