2021年2月 雪解け
「さみぃ……」
自室の床に転がり、身体を――それこそ猫のように――丸くし、南泉は言葉として、吐き出した。
吐き出さなければ、耐えきれそうにない、なにかが胸の内にすくっている。そんな状態にあるからだ。
寒いのは外気が低く、室内も同様に温度が低いということもあるが、理由は気温によるものだけではない。
南泉一文字は山姥切長義と喧嘩をした。
喧嘩自体は売り言葉に買い言葉で比較的頻繁にしている。本丸の誰もがそれを知っている。それくらいよく喧嘩をしている。
なので喧嘩自体はさして珍しいことではない。
そう、喧嘩は珍しいことではない。
だが、ふたりの喧嘩が長引くのは、珍しいことなのだ。
「さみしい……にゃ……」
こぼれ落ちる、言葉。無意識下でこぼされる、言葉。
南泉はほぼ閉じていた瞳を思い切り見開き、手で口を勢いよくふさぐ。
(オレ、今、なんつった……?)
自分からこぼれ落ちたものだというのに、それを信じたくなくて、さらに身体を丸くする。
考えることを拒否するかのように……――。
丸めた身体の中に頭をより押し込めるようにし、見開いた瞳を今度は思い切り閉じて、このまま眠りにつくように、眠りにつけるように、口を塞いでいた手はそこから外し、胸元をギュッと力強く握り締める。
すべて塞いでしまうかのように……――。
このまま意識さえ手放すことができれば、なにも考えなくて済む。寂しいと思った感情すらも、手放すことができるはず。
そう願う心と身体はイコールで結ばれているわけでもなく、意識はしっかりと覚醒され続ける。もう意識を手放すことは諦めたほうが建設的であろうという考えが浮かんでくるほどに……――。
「………………」
諦めの境地というものは、まさに今のようなことを言うのかもしれない。
そんな気持ちで寝入ることを諦めた南泉は、潔く身体を起こす。ぐだぐだと床に転がっていた身体は少々の重だるさを感じさせるが、すぐに消え失せるようなものだろう。なにせ床に寝転がっていたのだから。
ふう……とため息をひとつこぼすと、喉に感じる違和感。冬の空気がもたらす乾燥と飲食を怠ってれる。
そんな動きのワンクッションを入れて立ち上がると、転がっている半纏を身にまとい、厨に向かうために自室を出る。
しかし南泉は部屋を出た瞬間、ぴたっと足を止める。
身体を芯まで冷やすような空気の中で、南泉の部屋の前にたたずむ男がいたからだ。
「お前、そこでなにしてんだ……」
だが彼は南泉の言葉に視線を向けるだけで、唇は閉じたまま動かす素振りもない。
これは考えるまでもなく、関わったら面倒くさいことになる――即座にそんな気持ちが南泉の中に浮かび上がる。
無視して通り過ぎようと歩みを進めるが、彼の前で自然と足が止まる。先に進みたいのに、感情とは裏腹に足が進まない。
これもまた、理由なんて考えるまでもない。
「ほんっとにめんどくせーやつだにゃっ!」
吐き捨てるように言葉にすると南泉は突っ立ったままの長義の手を取り、自身の部屋へと引きずり込む。
触れた手は、こちらの体温すらも奪っていくのではないかというくらい、冷たくて。それだけでどれだけの時間、外とほぼ変わりない状態の廊下にいたのかが伺いしれる。
「これ着てろ!」
南泉は着ていた半纏を脱ぐと、そのまま長義の肩にそれをかける。
次に長義の体温を確認するために頬を包むように手を当てれば、やはりそこも冷たさしかない。
手も、顔も、ひんやりとしているどころではない冷たさ。
「どれだけの時間、廊下にいたんだよ……」
南泉は呆れ混じりにこぼすと、続けざま、深い、深い、ため息を吐き出した。
むしろため息以外、口からこぼせなかった。
なんのアクションも起こさず、ただ部屋の前にいる長義の行動に対しても、気配に気付くことができなかった自分に対しても、なんとも言い難い気持ちにしかならないからだ。
そして動こうとした長義と、動こうともせずただ部屋で拗ねていただけの自分に対しても、なんとも言い難い気持ちにしかならないのだ。
このなんとも言えない気持ちを乗り越えて、目の前に相手がいる今こそ、仲直りをする絶好の機会であることは明白。ここを逃せばよりこじれ続けそうな気もするし、最悪こじれるどころではないかもしれない――そんなことを南泉に思わせる状態だ。
頬に当てている手はそのままで、南泉は目の前にいる相手を真っ直ぐに見つめる。
ただただ真っ直ぐに向けられる南泉の視線に、しばらくすると瞳を伏せていた長義も同じように見つめ返してくる。やられっぱなしではいないとでも言うかのように。
深い深い青い瞳の色。濃い青さ。それはすべてを飲み込んでしまいそうなほど、深い。
深さに飲み込まれないよう、南泉は踏ん張る。
飲み込まれてしまったら、きっとなにも言葉にできなくなる。
だから飲み込まれる前に、口火を切ろうと、した。
「やま、ん……」
南泉は名前を呼ぼうとしただけだった。
だが南泉が口にするよりも先に、長義の冷たい指先が、南泉の唇に押し当てられた。
「猫殺しくん、だめだよ。俺が先だから。君には言わせてあげないよ」
ずいぶんと勝手な物言いではあるが、彼らしいと言えば、彼らしい言葉ではある。
南泉は長義の意志を尊重するために唇を再度開くことはせず、言葉を飲み込んだまま、待つ。
深い深い青い瞳を、目をそらすことなく真っ直ぐみつめたまま……――。
「すまない」
言葉にされたのはたった一言。シンプルすぎるほどにシンプルな言葉、一言だけ。プライドの高い山姥切長義らしい謝罪の言葉。
(ああもぉ。本当にこいつってやつは……)
どこまでも自分らしさを崩さない長義に南泉は目を細め、「ん……」と緩い笑みを浮かべた。
長かったものが、ようやく、解けた瞬間だった。